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1 岡山大学大学院教育学研究科研究集録 第 171 号(2019)1 - 8 ︿西︿婿Keywords A Study of Dazai Osamus Hashire Merosu : Focusing on “Being Trusted” KIMURA Takumi Division of Social Studies and Language Education, Graduate School of Education, Okayama University, 3-1-1 Tsushima-naka, kita-ku, Okayama, 700-8530

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( 1 )

岡山大学大学院教育学研究科研究集録 第 171 号(2019)1 - 8

 「走れメロス」は、「新潮」︵第三七年第五号、昭和一五年五月一日︶に発表

された。周知のように「走れメロス」は、小栗孝則訳﹃新編シラー詩抄﹄︵改

造社、昭和一二年七月二〇日︶所収の「人質 譚詩」を︿直接参考にした﹀⑴

とされ、登場人物名、台詞や表現に類似点が多く認められる。しかし、シラー

の詩が、メロスによる王への襲撃場面から始まるのに対し、「走れメロス」で

はメロスが羊飼いで、妹の婚礼の準備のためにシラクスへ買い物にやって来た

ことから始まり、セリヌンティウスが石工であるという設定や、メロスの葛藤

をはらんだモノローグ、群衆が「王様万歳」を叫んだり、マントを持った少女

が登場したりする場面などが付け加えられており、シラーの「人質」に依りな

がらも太宰の創作部分が多く含まれることは、既に多くの先行論で指摘されて

いる。そして太宰が加筆した箇所の中には、作品世界を理解する上で重要な内

容が含まれている。

 そもそも「人質」の典拠は、ローマのヒュギーヌスによる伝説とされている

が、この伝説は箕作麟祥訳述﹃泰西勧善訓蒙﹄︵明治四年辛未仲秋刊、名古屋

学校︶の下巻一八一章が、日本で最初の紹介とされる⑵。「是レ朋友交誼ノ厚

キ規範ト為スニ足ル可シ」⑶という結句に示されているように、強い友情関係

を規範とする考え方が示されている。それは明治二三年の「教育勅語」中の︿朋

友相信シ﹀という、トップダウンによって示された徳目とも整合する。「友情」

というコンセプトは、「人質」ひいては「走れメロス」を受容する上での主要コー

ドといえるだろう。そうであればこそ、「走れメロス」が中学校二年生の国語

科教科書五社全てに採録され︵二〇一九年四月現在︶、長く指導用教材とされ

ていることも理解しやすい。

 「走れメロス」は、教材論・文学研究にわたり既に論考も多いが、本論では

太宰による加筆部分を対象に検討を加えることでメロスの人物像を再検討し、

「走れメロス」の世界像を再構築するとともに、それに基づいた国語教育上の

指導内容を新たに提示したい。

太宰治「走れメロス」論

―「信頼されてゐる」ことをめぐって

木村  功

 本論では、「走れメロス」の主人公メロスの人物像を、「葡萄の季節」、「二つの約束」、「信頼されてゐる」ことの、三つの観点から読みなお

した。「葡萄の季節」では、メロスと妹婿になる牧人の、結婚式の時期の齟齬から見えてくる問題を指摘した。「二つの約束」では、王とセリ

ヌンティウスの二人にとっての約束の意味の相違に注目し、メロスがセリヌンティウスへの意識が低いことを指摘した上で、メロスが「信頼

されてゐる」ことの意味を理解したことが、「恐ろしく大きいもの」という発言に繋がると考えた。以上の考察から、「走れメロス」は友情を

テーマとする作品というだけでなく、他者から信頼される意味を理解することに注目した作品であることを明らかにした。

Keywords

:葡萄の季節、二つの約束、信頼されてゐる、恐ろしく大きいもの

岡山大学大学院教育学研究科社会・言語教育学系 七〇〇―八五三〇 岡山市北区津

島中三―一―一

A Study of Dazai O

samu’s H

ashire Merosu : Focusing on “Being Trusted”

KIM

UR

A Takum

iD

ivision of Social Studies and Language Education, Graduate School of Education,

Okayam

a University, 3-1-1 Tsushim

a-naka, kita-ku, Okayam

a, 700-8530

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太宰治「走れメロス」論

( 3 )

これが花婿が断れなくするための外堀を埋める策だとしても︵︿単純な男﹀と

いう説明と矛盾するようだが︶、ここにもメロスの独断専行ぶりを認めること

は可能なのである。

 メロスの人物像については、︿邪悪に対しては、人一倍に敏感であつた﹀と

冒頭部で述べられるために正義感の強い人間と理解されがちである。しかし、

︿メロスは、単純な男であつた。﹀とあるように、王城に一人乗り込んで捕縛さ

れた挙げ句、妹の挙式を理由にセリヌンティウスを人質にすることを、本人の

了解なしに王に申し出てしまう、短絡的で身勝手な振る舞いが認められる。人

質案は、後でセリヌンティウス本人から受け入れられたが、「人質」にも描か

れないメロスの独断は問題点として残る。そして妹の結婚の準備話も、そうし

たメロスの一貫した短絡的な独断先行ぶりを物語るエピソードの一つとして配

置されていたのである。

 これらのことから、メロスは︿邪悪に対しては、人一倍に敏感であつた。﹀

とはいうものの、それはあくまでメロスの価値観の中での正義感なのであり、

社会的人間関係におけるメロスは、専ら短絡的で自己中心的な言動を採る人物

であることを、語り手は物語っていたといえよう。それではなぜ語り手は、そ

のような人物を物語の中心に据えるのか、という疑問が次に生じることになる。

  二、二つの約束とメロスの変容

 メロスが王との間で交わした約束は、三日後の夕方までに王城へ戻ってくる

こと、戻ってこなければセリヌンティウスを処刑するというものであった。た

だし、ディオニスは︿生意気なことを言ふわい。どうせ帰つて来ないにきまつ

てゐる。この嘘つきに騙された振りして、放してやるのも面白い。さうして身

代りの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。人は、これだから信じられ

ぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を磔刑に処してやるのだ。世の中

の、正直者とかいふ奴輩にうんと見せつけてやりたいものさ。﹀と述べている

ように、約束が果たされるものとは考えていない。この約束は、その申し込み

もそうであったように、メロスから王に対して一方的になされたものであった

からである。ディオニスは、メロスとの約束を反故にして、セリヌンティウス

を勝手に処刑することもできた筈である。そうしなかったのは、メロスという

男が約束を果たせず、︿身代りの男﹀を処刑することで、︿人は、これだから信

じられぬ﹀という自身の不信を、改めて市民へ示す機会として利用しようとし

たからである。

 その約束の日の早朝を迎えたメロスについて、以下のように物語られる。

  

けふは是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやらう。さ

うして笑つて磔の台に上つてやる。メロスは、悠々と身仕度をはじめた。

雨も、いくぶん小降りになつてゐる様子である。身仕度は出来た。さて、

メロスは、ぶるんと両腕を大きく振つて、雨中、矢の如く走り出た。

  

 私は、今宵、殺される。殺される為に走るのだ。身代りの友を救ふ為に

走るのだ。王の奸佞邪智を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。

さうして、私は殺される。若い時から名誉を守れ。さらば、ふるさと。

 この時のメロスは、二つの約束をしている。前述したように、一つは王に対

して、死刑になるために夕方までに戻って来るというものである。さもなくば、

人質のセリヌンティウスがメロスの代わりに死刑に処せられるというものであ

る。二つは、セリヌンティウスに、自分の身代わりに人質になって貰う代わり

に、夕方までには必ず帰って来るというものである。そしてどちらの約束も、

メロスが王城へ帰還することで、果たされる約束である。メロスにしてみれば

自分が王城にさえ帰還すれば、同時に二つの約束が果たされるという単純極ま

りない約束であった。しかし、メロスには一つの同じ約束に見えていても、ディ

オニス、セリヌンティウスそれぞれの立場からみれば、それは同じ約束という

わけではない。

 ディオニスにとってのメロスの約束は、メロス自身の死刑を行うことを延期

しているだけで、約束が守られれば予定通りメロスを対象に死刑を行い、約束

が守られなければ身代わりの男を死刑にする、というものであった。ところが

セリヌンティウスにとっての約束は、メロスが戻ってこられるかどうかで、自

分の生死が左右されるという、自分の命運を友人に預けなければならないもの

であった。そしてその約束も自分の意思とは関係がなく、王とメロスとの間で

決められたものであり、勝手に約束をしたメロスを信じて、命を預けるという

無益も極まりないものであった。このように、生死がかかっているだけに、約

束の重みはセリヌンティウスの方が重いといえよう。ところがその事が、メロ

スには十分理解出来ていないことが、語り手によって物語られているのである。

木村  功

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  一、メロスと葡萄の季節

 メロスの人物像を理解する上で、冒頭の︿メロスは激怒した。﹀の一文から

はじまり、︿メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、

羊と遊んで暮らしてきた。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であつた。﹀

という語り手の紹介は、︿のんきなメロス﹀が有する正義漢としての一面を読

者に印象づける。東郷克美は︿メロスは激怒した。﹀の冒頭文を評価し、︿この

一文は「単純」で正義感の強いメロスの性格をいち早く暗示している﹀と指摘

し、︿この作品はその「激怒」の底にあるメロスの正義感と厚い友情が緊張を

はらみつつ高まり、最後に一挙にカタルシスを迎えるまでの物語だ。﹀⑷と述

べている。しかしその一方で、怒りに駆られて王城へ単独で乗り込むような︿単

純な男﹀とされ、親友であるはずのセリヌンティウスを、本人の了解を得る前

に人質に差し出し、あまつさえ暴君との間で、自分が約束を守れなかった時は

死刑にしてよいという約束まで取り交わしてしまう身勝手さも、メロスは併せ

持つ。本章では、メロスの人物像を理解する上で、注目されることのなかった

エピソードを分析することで、メロスの人物像に新たな一面を追加したい。

 最初に本論で注目したいのは、メロスと妹の結婚相手である牧人とのやりと

りである。作品冒頭で語り手は、メロスの家族構成について述べた後、妹につ

いて︿結婚式も間近かなのである。メロスは、それゆゑ、花嫁の衣裳やら祝宴

の御馳走やらを買ひに、はるばる市にやつて来たのだ。﹀と紹介している。︿祝

宴の御馳走﹀を市へ買いに来ていることからも、メロスの妹の︿結婚式も間近

か﹀であることが分かる。ところが、メロスと妹の結婚相手の間には、興味深

い齟齬が確認できる。以下はそのくだりである。

   「市に用事を残して来た。またすぐ市に行かなければならぬ。あす、おま

への結婚式を挙げる。早いはうがよからう。」

   妹は頬をあからめた。

   「うれしいか。綺麗な衣裳も買つて来た。さあ、これから行つて村の人た

ちに知らせて来い。結婚式は、あすだと。」

   ︵中略︶

  

 眼が覚めたのは夜だつた。メロスは起きてすぐ、花婿の家を訪れた。さ

うして、少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。婿の

牧人は驚き、それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出来てゐない、

葡萄の季節まで待つてくれ、と答へた。︵傍線引用者、以下同︶

 ︿結婚式も間近か﹀であるにもかかわらず、妹の婿になる牧人は傍線部のよ

うに、結婚式の準備について︿こちらには未だ何の支度も出来てゐない、葡萄

の季節まで待つてくれ﹀とメロスに応えているのである。舞台となっているシ

チリア島は、作品中に「ゼウス」の名が登場するように、ギリシア人から葡萄

栽培が伝えられた、イタリアでも古いワイン産地である。牧人のいう︿葡萄の

季節﹀とは、挙式の支度の都合が述べられる文脈から考えて、葡萄の一般的な

収穫期である八、九月頃を指していると考えるのが自然である。メロス同様村

に居住している牧人は、自身でも葡萄を栽培しており、収穫期に販売した利益

で、祝宴の支度を調えようと考えていたのであろう。︿牧人の社会では、花婿

は結婚に先立って、花嫁の兄に「婚資」を差し出す必要があり、そのためには、

花婿は是非とも収穫の季節まで結婚を待つ必要があった。﹀⑸とする先行研究

もある。

 ここで、メロスがセリヌンティウスを暴君の人質とした夜、︿初夏、満天の

星である。﹀と語られていたことを想起してもらいたい。特に「初夏」につい

ては、︿夏のはじめ。陰暦四月の異称。渡部芳紀氏「﹃走れメロス﹄の魅力︵「月

刊国語教育」平成八年五月︶は「一回り大きな時間」が示されたと見る。﹀と

いう、人間の時間とそれを包摂する自然の時間へ注目した言及がある⑹。しか

しこの「初夏」の提示は、舞台となっている時間を提示しているだけではなく、

メロスの人物像とも関わっている。

 イタリアは地中海性気候で知られるが、日本と同じように温帯気候で四季が

あり、ここで語り手が述べる初夏も日本と同じ六月初旬と考えられる。そして、

牧人のいう︿葡萄の季節﹀である収穫期が八、九月であることを勘案すると、

メロスは︿結婚式も間近かなのである。﹀として妹の結婚式の準備を進めてい

るが、両者の間では大体二、三ヵ月の時間差が生じていることが分かる。この

ことが意味しているのは他でもない、妹婿となる相手と、言い換えれば婚資を

用意する必要性のある結婚の当事者と、然るべき挙式の時期を相談することも

ないまま、メロスが独断専行によって準備を進めていたことが分かるのである。

ついでに言うと、相手の牧人がメロスの要請を受け入れるよりも先に、村人た

ちには「結婚式は、あす」だということが知れ渡っていることも勘案すれば、

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太宰治「走れメロス」論

( 3 )

これが花婿が断れなくするための外堀を埋める策だとしても︵︿単純な男﹀と

いう説明と矛盾するようだが︶、ここにもメロスの独断専行ぶりを認めること

は可能なのである。

 メロスの人物像については、︿邪悪に対しては、人一倍に敏感であつた﹀と

冒頭部で述べられるために正義感の強い人間と理解されがちである。しかし、

︿メロスは、単純な男であつた。﹀とあるように、王城に一人乗り込んで捕縛さ

れた挙げ句、妹の挙式を理由にセリヌンティウスを人質にすることを、本人の

了解なしに王に申し出てしまう、短絡的で身勝手な振る舞いが認められる。人

質案は、後でセリヌンティウス本人から受け入れられたが、「人質」にも描か

れないメロスの独断は問題点として残る。そして妹の結婚の準備話も、そうし

たメロスの一貫した短絡的な独断先行ぶりを物語るエピソードの一つとして配

置されていたのである。

 これらのことから、メロスは︿邪悪に対しては、人一倍に敏感であつた。﹀

とはいうものの、それはあくまでメロスの価値観の中での正義感なのであり、

社会的人間関係におけるメロスは、専ら短絡的で自己中心的な言動を採る人物

であることを、語り手は物語っていたといえよう。それではなぜ語り手は、そ

のような人物を物語の中心に据えるのか、という疑問が次に生じることになる。

  二、二つの約束とメロスの変容

 メロスが王との間で交わした約束は、三日後の夕方までに王城へ戻ってくる

こと、戻ってこなければセリヌンティウスを処刑するというものであった。た

だし、ディオニスは︿生意気なことを言ふわい。どうせ帰つて来ないにきまつ

てゐる。この嘘つきに騙された振りして、放してやるのも面白い。さうして身

代りの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。人は、これだから信じられ

ぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を磔刑に処してやるのだ。世の中

の、正直者とかいふ奴輩にうんと見せつけてやりたいものさ。﹀と述べている

ように、約束が果たされるものとは考えていない。この約束は、その申し込み

もそうであったように、メロスから王に対して一方的になされたものであった

からである。ディオニスは、メロスとの約束を反故にして、セリヌンティウス

を勝手に処刑することもできた筈である。そうしなかったのは、メロスという

男が約束を果たせず、︿身代りの男﹀を処刑することで、︿人は、これだから信

じられぬ﹀という自身の不信を、改めて市民へ示す機会として利用しようとし

たからである。

 その約束の日の早朝を迎えたメロスについて、以下のように物語られる。

  

けふは是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやらう。さ

うして笑つて磔の台に上つてやる。メロスは、悠々と身仕度をはじめた。

雨も、いくぶん小降りになつてゐる様子である。身仕度は出来た。さて、

メロスは、ぶるんと両腕を大きく振つて、雨中、矢の如く走り出た。

  

 私は、今宵、殺される。殺される為に走るのだ。身代りの友を救ふ為に

走るのだ。王の奸佞邪智を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。

さうして、私は殺される。若い時から名誉を守れ。さらば、ふるさと。

 この時のメロスは、二つの約束をしている。前述したように、一つは王に対

して、死刑になるために夕方までに戻って来るというものである。さもなくば、

人質のセリヌンティウスがメロスの代わりに死刑に処せられるというものであ

る。二つは、セリヌンティウスに、自分の身代わりに人質になって貰う代わり

に、夕方までには必ず帰って来るというものである。そしてどちらの約束も、

メロスが王城へ帰還することで、果たされる約束である。メロスにしてみれば

自分が王城にさえ帰還すれば、同時に二つの約束が果たされるという単純極ま

りない約束であった。しかし、メロスには一つの同じ約束に見えていても、ディ

オニス、セリヌンティウスそれぞれの立場からみれば、それは同じ約束という

わけではない。

 ディオニスにとってのメロスの約束は、メロス自身の死刑を行うことを延期

しているだけで、約束が守られれば予定通りメロスを対象に死刑を行い、約束

が守られなければ身代わりの男を死刑にする、というものであった。ところが

セリヌンティウスにとっての約束は、メロスが戻ってこられるかどうかで、自

分の生死が左右されるという、自分の命運を友人に預けなければならないもの

であった。そしてその約束も自分の意思とは関係がなく、王とメロスとの間で

決められたものであり、勝手に約束をしたメロスを信じて、命を預けるという

無益も極まりないものであった。このように、生死がかかっているだけに、約

束の重みはセリヌンティウスの方が重いといえよう。ところがその事が、メロ

スには十分理解出来ていないことが、語り手によって物語られているのである。

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太宰治「走れメロス」論

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葉も読者には皮肉としか読めない。

 しかし、そんな中でもメロスの意識は、以下のように次第にセリヌンティウ

スと彼からの信頼へ向かい始めていることが分かる。

  

セリヌンテイウスよ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君

を、欺かなかつた。私たちは、本当に佳い友と友であつたのだ。いちどだ

つて、暗い疑惑の雲を、お互ひ胸に宿したことは無かつた。いまだつて、

君は私を無心に待つてゐるだらう。ああ、待つてゐるだらう。ありがたう、

セリヌンテイウス。よくも私を信じてくれた。それを思へば、たまらない。

友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。

 この後、︿やんぬる哉。

―四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしま﹀

うものの、メロスは水音を聞いて泉の清水を一口飲み、疲労の回復とともに気

力を取り戻す。この時メロスの意識に、大きな変化が生じている事に着目した

い。

  

日没までには、まだ間がある。私を、待つてゐる人があるのだ。少しも疑

はず、静かに期待してくれる人があるのだ。

私は、信じられてゐる。私

の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、なぞと気のいい事は言つて居

られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ!

メロス。

  

 私は信頼されてゐる。私は信頼されてゐる。先刻の、あの悪魔の囁きは、

あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまへ。

 既述したように、ここに至るまでのメロスは、王に対して信実を示すために

走っていた。言い換えれば、約束通り戻っても死刑に処せられるにもかかわら

ず、王と交わした約束を守るべく自分の名誉をかけて走っていたのである。し

かし、泉の水を一口飲んだ後、再び歩きはじめたメロスは、︿肉体の疲労恢復

と共に、わづかながら希望が生まれた。義務遂行の希望である。わが身を殺し

て、名誉を守る希望である。﹀と、それまでのように自身の名誉を意識しなが

らも、次には︿私を、待つてゐる人があるのだ。少しも疑はず、静かに期待し

てくれる人があるのだ。﹀と述べるようになる。ここでメロスがいう︿待つて

ゐる人﹀というのは、ディオニスではなく、セリヌンティウスその人であるこ

とは言を俟たない。メロスの意識の正面にようやくセリヌンティウスが据えら

れたのである。そして、メロスは︿私は、信じられてゐる。﹀、︿私は、信頼に

報いなければならぬ。﹀、︿私は信頼されてゐる。﹀と繰り返すようになる。つま

り、王との約束の刻限までに王城へ帰還して約束を果たすことで命を救うとい

う約束を、セリヌンティウスから︿信じられてゐる﹀ことを自覚したメロスは、

その︿信頼に報い﹀るために走るようになったのである。

 明らかなようにここには、ディオニスとの約束を果たすことで信実を示し、

自分の名誉を守るために走るメロスから、セリヌンティウスの命がけの信頼に

応えるために走るメロスへの変容が認められる。王との約束の履行は︿若い時

から名誉を守れ。﹀というメロス自身の名誉意識と結びついた、自己中心的な

理由に基づくものであるが、セリヌンティウスからの信頼に報いようとするの

は、他者との︿愛と信実﹀に基づいたものである。︿信頼されてゐる﹀ことを

強調した表現が繰り返されることで、読者にはメロスの変容が強く意識される

ことになる。かくしてメロスは、自分の弱い心から立ち直ると同時に、セリヌ

ンティウスからの信頼を意識した真の意味での︿愛と信実﹀に覚醒したといえ

るのである。

  三、﹁もつと大きい大きい︵恐ろしく大きい︶もの﹂

 考察の対象の最後は、刑場へ向かうメロスの前にセリヌンティウスの弟子の

フィロストラトスが現れ、メロスを押しとどめようとした場面での、メロスの

以下の発言である。

    「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。

あの方は、あなたを信じて居りました。刑場に引き出されても、平気でゐ

ました。王様が、さんざんあの方をからかつても、メロスは来ます、とだ

け答へ、強い信念を持ちつづけてゐる様子でございました。」

   「それだから、走るのだ。信じられてゐるから走るのだ。間に合ふ、間に

合はぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、も

つと大きい大きいもの︵木村注

―﹃女の決闘﹄河出書房、昭和一五年六

月一五日より、「恐ろしく大きいもの」と改められた。︶の為に走つてゐる

木村  功

( 4 )

 前述したように三日目早朝の起床場面でメロスは、︿けふは是非とも、あの

王に、人の信実の存するところを見せてやらう。﹀と述べており、走り出た時

にも︿若い時から名誉を守れ。﹀と自分に呼びかけている。このことからメロ

スの意中では、セリヌンティウスとの約束よりも、王を強く意識していること

が窺える。既に高木まさきに、︿もともとメロスは「名誉」を気にする見栄っ

張りのところがある。︵中略︶メロスは確かに「信実」のために走っている。

だが、それは「信実の存するところを見、せ、て、や、ろ、う、。」、「若いときから名、誉、を、守、

れ、。」などと言う言葉に表れているように、強く、見、え、=見、栄、を意識したもので

あった。﹀⑺との指摘があり、︿「人質」にはそのような言葉は見られず、「正義」

や「名誉」は「走れメロス」特有の価値観であると言える。﹀⑻という言及も

ある。そして、これら「信実」「名誉」「正義」という言葉が、いずれもメロス

が王を意識する文脈の中で登場する言葉であったことに留意したい。一方セリ

ヌンティウスに対しては、メロスの意識のレベルを裏付ける行動が、以下のよ

うに続く。

  

村を出て、野を横切り、森をくぐり抜け、隣村に着いた頃には、雨も止み、

日は高く昇つて、そろそろ暑くなつて来た。メロスは額の汗をこぶしで払

ひ、ここまで来れば大丈夫、もはや故郷への未練は無い。妹たちは、きつ

と佳い夫婦になるだらう。私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。ま

つすぐに王城に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。

ゆつくり歩かう、と持ちまへの呑気さを取り返し、好きな小歌をいい声で

歌ひ出した。ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに

到達した頃、降つて湧いた災難、メロスの足は、はたと、とまつた。

 シラーの「人質」のメロスが︿そして三日目の朝、夜もまだ明けきらぬうち

に/急いで妹を夫といつしよにした彼は/気もそぞろに帰路をいそいだ/日限

のきれるのを怖れて﹀⑼とあるように、妹を嫁がせるや友人の命を慮って帰路

を急いでいるのに対して、︿けふは是非とも、あの王に、人の信実の存すると

ころを見せてやらう。﹀と出立時に思ったメロスは、友人が身代わりに捕らわ

れているにも関わらず、︿そんなに急ぐ必要も無い。ゆつくり歩かう﹀と、︿好

きな小歌をいい声で歌ひ﹀ながら、一〇キロ以上も︿ぶらぶら歩いて﹀いるの

である。近藤周吾も、︿メロスを信じて命を預けたセリヌンティウスの身から

すれば、これはあまりにも脳天気過ぎて不可解極まりない行動とは言えないだ

ろうか。それとも、そういう男だと知り抜いた上でセリヌンティウスは人質に

なったのか。いずれにしても、この田舎育ちの主人公には自らを厳しく律する

西洋的な倫理が欠如している。﹀⑽と厳しく指摘する。

 しかし、これもメロスが王との約束を守ることを優先し、人質になっている

セリヌンティウスを軽視していることの表れであると考えれば見易い。言い換

えれば、メロスは友人の命がけの信頼に応えることよりも、王と約束した夕刻

までに王城へ帰り着き、王へ︿人の信実の存するところを見せてや﹀ることで、

王に信実を示し自身の名誉を守ることを考えているのであり、その遂行を確実

視できる今、親友が人質になっていることを、殊更意識する必要はなかったの

である。

 その後、周知のようにメロスは洪水で氾濫する河川、山賊の襲撃に遭遇し、

辛うじて切り抜けるものの、最後に自身の身体的疲労から来る︿勇者に不似合

ひな不貞腐れた根性﹀の出現の前に、精も根も尽き果ててしまう。

   

身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいといふ、勇者

に不似合ひな不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰つた。私は、これほど努力

したのだ。約束を破る心は、みぢんも無かつた。神も照覧、私は精一ぱい

に努めて来たのだ。動けなくなるまで走つて来たのだ。私は不信の徒では

無い。ああ、できる事なら私の胸を截ち割つて、真紅の心臓をお目に掛け

たい。愛と信実の血液だけで動いてゐるこの心臓を見せてやりたい。けれ

ども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。

 疲労で倒れ伏したメロスは、︿神も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。

動けなくなるまで走つて来たのだ。﹀と述べているが、その実︿ぶらぶら歩いて﹀

いたことを読者は知っている。メロスに意識されているのは、実際はどうであ

ろうと、自分が約束を守るべく︿努力した﹀ことであって、人質のセリヌンティ

ウスの身の上ではない。この意味において、人質になっているセリヌンティウ

スの信頼を意識できているかという点では、メロスの態度は︿愛と信実﹀から

遠いものであった。言い換えれば、メロスの自己中心性は、ここでも一貫して

いるのである。ここまでの一連のメロスの言動からは、自分の弱さに打ち負か

されそうになっている身勝手な男の姿が認められるだけで、︿勇者﹀という言

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太宰治「走れメロス」論

( 5 )

葉も読者には皮肉としか読めない。

 しかし、そんな中でもメロスの意識は、以下のように次第にセリヌンティウ

スと彼からの信頼へ向かい始めていることが分かる。

  

セリヌンテイウスよ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君

を、欺かなかつた。私たちは、本当に佳い友と友であつたのだ。いちどだ

つて、暗い疑惑の雲を、お互ひ胸に宿したことは無かつた。いまだつて、

君は私を無心に待つてゐるだらう。ああ、待つてゐるだらう。ありがたう、

セリヌンテイウス。よくも私を信じてくれた。それを思へば、たまらない。

友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。

 この後、︿やんぬる哉。

―四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしま﹀

うものの、メロスは水音を聞いて泉の清水を一口飲み、疲労の回復とともに気

力を取り戻す。この時メロスの意識に、大きな変化が生じている事に着目した

い。

  

日没までには、まだ間がある。私を、待つてゐる人があるのだ。少しも疑

はず、静かに期待してくれる人があるのだ。

私は、信じられてゐる。私

の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、なぞと気のいい事は言つて居

られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ!

メロス。

  

 私は信頼されてゐる。私は信頼されてゐる。先刻の、あの悪魔の囁きは、

あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまへ。

 既述したように、ここに至るまでのメロスは、王に対して信実を示すために

走っていた。言い換えれば、約束通り戻っても死刑に処せられるにもかかわら

ず、王と交わした約束を守るべく自分の名誉をかけて走っていたのである。し

かし、泉の水を一口飲んだ後、再び歩きはじめたメロスは、︿肉体の疲労恢復

と共に、わづかながら希望が生まれた。義務遂行の希望である。わが身を殺し

て、名誉を守る希望である。﹀と、それまでのように自身の名誉を意識しなが

らも、次には︿私を、待つてゐる人があるのだ。少しも疑はず、静かに期待し

てくれる人があるのだ。﹀と述べるようになる。ここでメロスがいう︿待つて

ゐる人﹀というのは、ディオニスではなく、セリヌンティウスその人であるこ

とは言を俟たない。メロスの意識の正面にようやくセリヌンティウスが据えら

れたのである。そして、メロスは︿私は、信じられてゐる。﹀、︿私は、信頼に

報いなければならぬ。﹀、︿私は信頼されてゐる。﹀と繰り返すようになる。つま

り、王との約束の刻限までに王城へ帰還して約束を果たすことで命を救うとい

う約束を、セリヌンティウスから︿信じられてゐる﹀ことを自覚したメロスは、

その︿信頼に報い﹀るために走るようになったのである。

 明らかなようにここには、ディオニスとの約束を果たすことで信実を示し、

自分の名誉を守るために走るメロスから、セリヌンティウスの命がけの信頼に

応えるために走るメロスへの変容が認められる。王との約束の履行は︿若い時

から名誉を守れ。﹀というメロス自身の名誉意識と結びついた、自己中心的な

理由に基づくものであるが、セリヌンティウスからの信頼に報いようとするの

は、他者との︿愛と信実﹀に基づいたものである。︿信頼されてゐる﹀ことを

強調した表現が繰り返されることで、読者にはメロスの変容が強く意識される

ことになる。かくしてメロスは、自分の弱い心から立ち直ると同時に、セリヌ

ンティウスからの信頼を意識した真の意味での︿愛と信実﹀に覚醒したといえ

るのである。

  三、﹁もつと大きい大きい︵恐ろしく大きい︶もの﹂

 考察の対象の最後は、刑場へ向かうメロスの前にセリヌンティウスの弟子の

フィロストラトスが現れ、メロスを押しとどめようとした場面での、メロスの

以下の発言である。

    「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。

あの方は、あなたを信じて居りました。刑場に引き出されても、平気でゐ

ました。王様が、さんざんあの方をからかつても、メロスは来ます、とだ

け答へ、強い信念を持ちつづけてゐる様子でございました。」

   「それだから、走るのだ。信じられてゐるから走るのだ。間に合ふ、間に

合はぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、も

つと大きい大きいもの︵木村注

―﹃女の決闘﹄河出書房、昭和一五年六

月一五日より、「恐ろしく大きいもの」と改められた。︶の為に走つてゐる

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太宰治「走れメロス」論

( 7 )

つて、平和を望んでゐるのだが。」

 このように「信じては、ならぬ」ことを、︿落着いて呟き﹀溜息をつく王に

対して、辛うじてメロスは︿人の心﹀が信じられることを証明してみせた。た

だしそれは、メロスが結果的に約束を守れたから言うのではない。メロスとセ

リヌンティウスが殴り合い、相抱擁する場面を︿群衆の背後から二人の様を、

まじまじと見つめてゐた﹀ディオニスの姿に注目したい。

   「セリヌンテイウス。」メロスは眼に涙を浮べて言つた。「私を殴れ。ちか

ら一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私を殴

つてくれなかつたら、私は君と抱擁する資格さへ無いのだ。殴れ。」

 この場面も、「人質」にはない太宰の創作箇所である。二人はそれぞれ、︿私

は、途中で一度、悪い夢を見た﹀、︿私はこの三日の間、たつた一度だけ、ちら

と君を疑つた。生れて、はじめて君を疑つた。﹀と︿人の心﹀の弱さをそれぞ

れ告白しながら、それを克服していたことも、併せてディオニスの眼前で見せ

ていたのである。︿人の心﹀を信じられぬことを理由に、家族・親族を殺害し

てきた王は、その心の弱さを克服する強さを持つことを、群衆を前にした二人

の男達の対話から気づかされたことになる。︿どうか、わしも仲間に入れてく

れまいか。どうか、わしの願ひを聞き入れて、おまへらの仲間の一人にしてほ

しい。﹀という王の懇願は、二人の仲間になることで、︿人の心﹀の弱さを克服

しようとする姿勢を群衆に見せたことになる。ゆえに、群衆たちは歓声を上げ、

「万歳、王様万歳。」と叫ぶのである。

 かくして「走れメロス」は、メロスが王との約束を守って身代わりの人質に

した親友の命を救うミッションを通じて、単に友情の大切さを表現することよ

りも、他者から︿信頼されてゐる﹀ことの意義深さを自覚することや、そのこ

とを通じて︿人の心﹀の弱さを克服することを物語っていたことが読み取れる。

主人公メロスは、正義感は持つが︿単純な男﹀ゆえの自己中心的な言動を繰り

返していたが、身代わりの人質になったセリヌンティウスからの信頼を自覚し

たことで︿人の心﹀の弱さを克服し、ディオニスの心さえも動かしたことで、

真の「勇者」へ成長したのである。

  四、まとめ

 以上述べてきたように、「走れメロス」は、正義感が強いものの短絡的で自

己中心的な言動をとるメロスが、暴君ディオニスと交わした約束の履行の過程

で、王との約束よりもセリヌンティウスからの信頼を意識するようになり、︿信

頼されてゐる﹀ことの意味を発見・獲得し、自分の心に打ち克つ物語である。

正義感で猛進するだけのメロスが、途中で苦難に挫けそうになる弱い︿人の心﹀

を持った不完全な人間であるがゆえに、再起した後、セリヌンティウスの命が

けの信頼に応えようと必死になって走る姿は、読者の共感を得やすい。特に国

語科教材としては、自他の人間関係を意識するようになる思春期の中学生を対

象に、メロスが変容を遂げる箇所として本論で留意した「信頼さ、れ、る、」表現と

その意味を意識して指導することは、内容面が少々道徳的にはなるが、日常で

の人間関係を顧みる意味でも有意な学びの機会となるはずである。またそれが

「走れメロス」を読みなおす意味でも、重要な観点と考える。それは、明治期

以来のイデオロギーとしての「友情」を重視する読み方から、人間相互の「信

頼」関係、それも「信頼される」ことを意識した関係の内実を重視する読み方

への転換を意味するだろう。

 身近な人間関係から、国民と政治家の関係に至るまで、他者から「信じら、れ、

て、い、る、」ことの重みや意味を理解している人間こそが、真の「勇者」であると

いえる。メロスとセリヌンティウスからそのことを学んだ暴君ディオニスも、

その姿勢をシラクスの群衆から信じら、れ、たことで、再生への一歩を踏み出す

きっかけを得ることになった。メロスの︿信頼されてゐる﹀ことへの気づきは、

「世界」を大きく変えることになったのである。

 注 ⑴

 山内祥史「解題」︵﹃太宰治全集﹄第三巻、一九八九年一〇月二五日、筑

摩書房、四三二頁︶

 ⑵

 奥村淳「﹃走れメロス﹄と小栗孝則訳﹃新編シラー詩抄﹄」︵山内祥史編﹃太

宰治研究﹄一九、和泉書院、二〇一一年六月一九日、六六頁︶

 ⑶

 箕作麟祥訳述﹃泰西勧善訓蒙﹄︵下巻、明治四年辛未仲秋刊、名古屋学校、

一七丁表︶

 ⑷

 東郷克美「﹃走れメロス﹄の文体」︵「月刊国語教育」第一巻第三号、

木村  功

( 6 )

のだ。ついて来い! フイロストラトス。」

 メロスが再び走りはじめた時、︿私は、信頼に報いなければならぬ。いまは

ただその一事だ。走れ! メロス。﹀と自身に語りかけていたように、ここで

も︿「いまはご自分のお命が大事です」﹀というフィロストラトスの言葉に、︿「信

じられてゐるから走るのだ。」﹀とメロスは動じない。この時のメロスには、友

の信頼に応えるということだけではない、︿「私は、なんだか、もつと大きい大

きいもの︵恐ろしく大きいもの︶の為に走つてゐるのだ。」﹀と語るようなもの

が視野に入ってきているのである。

 ここでメロスが述べる「もつと大きい大きいもの︵恐ろしく大きいもの︶」

に該当する表現も、シラーの「人質」では認められない。相馬正一は、︿ギリシャ

神話の最高神ゼウス﹀⑾を想定しているが、ゼウスの登場は︿「信じられてゐ

るから走るのだ。」﹀というメロスの発言と整合しない。むしろ︿「信じられて

ゐるから走るのだ。」﹀という理由は、王との約束を意識していたメロスが、今

はセリヌンティウスのために走っているという解釈の文脈においてこそ整合す

るように思われる。その意味で、戸松泉による、︿この「もつと大きい大きい

もの」とはメロスとセリヌンテイウスの二人の間に結ばれた︿信頼﹀を指して

いると考える他ない。﹀⑿という見解は穏当なものである。一方で、田島伸夫

の︿この作品のすぐれた点は、「愛と誠」とか「信実」とかいう「主題」にあ

るのではなく、主人公自らが、そういう「ことば」

―ひとつの虚偽、虚飾を

はねとばして走るところにあると言えます。「愛」とか「信実」とかいう美名、

体面とか名誉とかいう飾りを捨て去ったとき、メロスは、真に勇気あるものと

しての姿をあらわします。﹀⒀との見解もある。田島論を支持する斎藤理生も、

︿フィロストラトスとの会話でメロスは、もはや友情のためというよりも、「な

んだか、もっと恐ろしく大きいもの」のために、「わけのわからぬ大きな力」

によって走っていると言う。従来これらの言葉はしばしば「神」だの「信実」

だのを指していると言われてきた。しかし重要なことは、田島伸夫氏が指摘す

るように、ここで彼が「友情」「愛」「信実」といったそれまで持っていた言葉

では表現できない何かに直面しているということだ。﹀⒁と述べる。

 見てきたように王との約束を意識して、信実や名誉を意識していたメロスが、

︿信じられてゐるから走るのだ。﹀と述べるように変化した文脈を勘案すると、

本論では︿それまで持っていた言葉では表現できない何か﹀︵斎藤理生︶とは、

「他者から信じら、れ、る、ことへの畏怖」と解釈したい。試みに、セリヌンティウ

スのように自分のために命を預けてくれる友人・家族が、果たしてどれくらい

いるかを自問してみると良いだろう。あるいは他人を、人はどれくらい本気で

信じることができるであろうか。例えば、メロスの頼みを聞き入れたディオニ

スとメロスの間の約束は形式的なもので、信頼に根ざしたものではなかった。

セリヌンティウスの命は、そのような相互の信頼に根ざさない約束に懸かって

いたのである。しかしセリヌンティウスは、親友とはいえ短絡的で自己中心的

なメロスに、自分の命を預けたのである。そのメロスは、これまで見てきたよ

うに、王との約束は意識していたが、身代わりの人質になってくれた親友を思

う事は、途中までほとんどなかった。不信が昂じて親族でさえ殺害する暴虐な

王に命を預けるという危険極まる状況を受け入れ、メロスの言葉を信じて身代

わりの人質になったセリヌンティウスがメロスに向けた信頼は、たとえようも

なく重く畏怖すべきものといえるだろう。そしてそのように信頼してくれる他

者を、どれくらいの人が友人としているだろう。

 かくして、「他者から信じら、れ、る、こと」の意味、その稀有で畏怖すべき価値

に気づいたとき、メロスは約束に︿間に合ふ﹀ことや︿人の命﹀よりも、セリ

ヌンティウスから命がけで︿私は信頼されてゐる。﹀ことの方が︿もつと大き

い大きいもの︵恐ろしく大きいもの︶﹀と理解されたのである。自己とは繋が

りのない他者から、その命や存在、未来を含めた人生そのものを預けられると

いう重みと意味がセリヌンティウスからの「信頼」の内実であること、自分と

相手が「信じる」者同士ではなく、自分と相手が信じら、れ、る、ことの大切さが分

かっており、互いが「信頼される」者同士であるという関係の大切さを、人間

不信を抱える王やシラクスの人々に教えるために、メロスは戻らねばならな

かった。

 そもそもメロスに対して、︿「︵前略︶おまへには、わしの孤独の心がわから

ぬ。」﹀と応じたディオニスは、メロスが、︿「人の心を疑ふのは、最も恥づべき

悪徳だ。王は、民の忠誠をさへ疑つて居られる。」﹀と批判するのを承けて、以

下のように自身の不信について説明していた。

  

 「疑ふのが、正当の心構へなのだと、わしに教へてくれたのは、おまへ

たちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私欲のかたまりさ。

信じては、ならぬ。」暴君は落着いて呟き、ほつと溜息をついた。「わしだ

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太宰治「走れメロス」論

( 7 )

つて、平和を望んでゐるのだが。」

 このように「信じては、ならぬ」ことを、︿落着いて呟き﹀溜息をつく王に

対して、辛うじてメロスは︿人の心﹀が信じられることを証明してみせた。た

だしそれは、メロスが結果的に約束を守れたから言うのではない。メロスとセ

リヌンティウスが殴り合い、相抱擁する場面を︿群衆の背後から二人の様を、

まじまじと見つめてゐた﹀ディオニスの姿に注目したい。

   「セリヌンテイウス。」メロスは眼に涙を浮べて言つた。「私を殴れ。ちか

ら一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私を殴

つてくれなかつたら、私は君と抱擁する資格さへ無いのだ。殴れ。」

 この場面も、「人質」にはない太宰の創作箇所である。二人はそれぞれ、︿私

は、途中で一度、悪い夢を見た﹀、︿私はこの三日の間、たつた一度だけ、ちら

と君を疑つた。生れて、はじめて君を疑つた。﹀と︿人の心﹀の弱さをそれぞ

れ告白しながら、それを克服していたことも、併せてディオニスの眼前で見せ

ていたのである。︿人の心﹀を信じられぬことを理由に、家族・親族を殺害し

てきた王は、その心の弱さを克服する強さを持つことを、群衆を前にした二人

の男達の対話から気づかされたことになる。︿どうか、わしも仲間に入れてく

れまいか。どうか、わしの願ひを聞き入れて、おまへらの仲間の一人にしてほ

しい。﹀という王の懇願は、二人の仲間になることで、︿人の心﹀の弱さを克服

しようとする姿勢を群衆に見せたことになる。ゆえに、群衆たちは歓声を上げ、

「万歳、王様万歳。」と叫ぶのである。

 かくして「走れメロス」は、メロスが王との約束を守って身代わりの人質に

した親友の命を救うミッションを通じて、単に友情の大切さを表現することよ

りも、他者から︿信頼されてゐる﹀ことの意義深さを自覚することや、そのこ

とを通じて︿人の心﹀の弱さを克服することを物語っていたことが読み取れる。

主人公メロスは、正義感は持つが︿単純な男﹀ゆえの自己中心的な言動を繰り

返していたが、身代わりの人質になったセリヌンティウスからの信頼を自覚し

たことで︿人の心﹀の弱さを克服し、ディオニスの心さえも動かしたことで、

真の「勇者」へ成長したのである。

  四、まとめ

 以上述べてきたように、「走れメロス」は、正義感が強いものの短絡的で自

己中心的な言動をとるメロスが、暴君ディオニスと交わした約束の履行の過程

で、王との約束よりもセリヌンティウスからの信頼を意識するようになり、︿信

頼されてゐる﹀ことの意味を発見・獲得し、自分の心に打ち克つ物語である。

正義感で猛進するだけのメロスが、途中で苦難に挫けそうになる弱い︿人の心﹀

を持った不完全な人間であるがゆえに、再起した後、セリヌンティウスの命が

けの信頼に応えようと必死になって走る姿は、読者の共感を得やすい。特に国

語科教材としては、自他の人間関係を意識するようになる思春期の中学生を対

象に、メロスが変容を遂げる箇所として本論で留意した「信頼さ、れ、る、」表現と

その意味を意識して指導することは、内容面が少々道徳的にはなるが、日常で

の人間関係を顧みる意味でも有意な学びの機会となるはずである。またそれが

「走れメロス」を読みなおす意味でも、重要な観点と考える。それは、明治期

以来のイデオロギーとしての「友情」を重視する読み方から、人間相互の「信

頼」関係、それも「信頼される」ことを意識した関係の内実を重視する読み方

への転換を意味するだろう。

 身近な人間関係から、国民と政治家の関係に至るまで、他者から「信じら、れ、

て、い、る、」ことの重みや意味を理解している人間こそが、真の「勇者」であると

いえる。メロスとセリヌンティウスからそのことを学んだ暴君ディオニスも、

その姿勢をシラクスの群衆から信じら、れ、たことで、再生への一歩を踏み出す

きっかけを得ることになった。メロスの︿信頼されてゐる﹀ことへの気づきは、

「世界」を大きく変えることになったのである。

 注 ⑴  山内祥史「解題」︵﹃太宰治全集﹄第三巻、一九八九年一〇月二五日、筑

摩書房、四三二頁︶

 ⑵

 奥村淳「﹃走れメロス﹄と小栗孝則訳﹃新編シラー詩抄﹄」︵山内祥史編﹃太

宰治研究﹄一九、和泉書院、二〇一一年六月一九日、六六頁︶

 ⑶

 箕作麟祥訳述﹃泰西勧善訓蒙﹄︵下巻、明治四年辛未仲秋刊、名古屋学校、

一七丁表︶

 ⑷

 東郷克美「﹃走れメロス﹄の文体」︵「月刊国語教育」第一巻第三号、

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木村  功

( 8 )

一九八一年年一一月︶

 ⑸  濱森太郎「﹃走れメロス﹄の着想について

―秘匿された物語の論理

―」

︵山内祥史編﹃太宰治研究﹄六、一九九九年六月一九日、和泉書院、七〇頁︶

 ⑹  近藤周吾「﹃走れメロス﹄評釈︵一︶」︵﹃太宰治研究﹄一五、二〇〇七年

六月一九日、和泉書院、二〇二頁︶

 ⑺

 高木まさき「﹃走れメロス﹄、そのテーマとユーモアの二重構造」︵田中実・

須貝千里編﹃文学の力×教材の力﹄教育出版、二〇〇一年六月一七日、

二三四頁︶

 ⑻

 安原杏佳音「太宰﹃走れメロス﹄論

―反美談としての読解の試み」︵「近

代文学試論」五一号、二〇一三年一二月二五日︶

 ⑼

 「人質 譚詩」小栗孝則訳﹃新編シラー詩抄﹄︵一九三七年七月二〇日、

改造社、二六五頁︶

 ⑽

 近藤周吾「﹃走れメロス﹄評釈︵三︶」︵山内祥史編﹃太宰治研究﹄

一七、二〇〇九年六月一九日、和泉書院、三一九、三二〇頁︶

 ⑾

 相馬正一「虚構化された素材を読み解く

―譚詩「人質」と「走れメロ

ス」

―」︵「月刊国語教育」第一七巻第一〇号、一九九七年一二月︶

 ⑿

 戸松 泉「︿走る﹀ことの意味

―太宰治「走れメロス」を読む

―」︵「相

模女子大学紀要」平成八年三月、のち山内祥史編﹃太宰「走れメロス」作

品論集﹄二〇〇一年四月二五日、クレス出版、二六〇頁︶

 ⒀

 田島伸夫・岩田道夫﹃国語教育・中学の文学﹄︵一九七六年四月一日、

あゆみ出版、一六四頁︶

 ⒁

 斎藤理生「饒舌・沈黙・含羞

―﹃走れメロス﹄の語りづらさ」︵「月刊

国語教育」第二七巻第一一号、二〇〇八年一月︶

 附記 「走れメロス」の本文は、﹃太宰治全集﹄︵第三巻、一九八九年一〇月

二五日、筑摩書房︶に依った。引用に際し、旧漢字表記は現行のものに改めた。